橋爪 日詰 豚の缶詰



 蝉の声と湿気を含んだ熱気が四畳半の部屋に籠もる。八月、午後三時。冷房も扇風機も点けず、俺はあえて、部屋の窓を全て閉め切っていた。……別に誰かにこの部屋に閉じ込められているわけではない。これは男の意地である。
 四日前、冷房と扇風機をガンガンに効かせ、テレビを流し聞きしながら原稿用紙に向かっていた時、突然ブレーカーが落ちた。慌てて台所にあるブレーカーを元に戻したが、様子がおかしい。何度ブレーカーを上げ下げしても、部屋の家電たちはしんとして、目を覚ます気配は一向にない。途方に暮れていたところ、玄関のドアに取り付けられたポストに、紙切れが投げ込まれる音がした。
 橋爪様――つまり俺宛ての紙切れは、電力会社からの通知だった。どうやら電気代を三か月分滞納していたため、俺の部屋は送電停止になったらしい。
 冷房の稼働音が失せ、テレビのニュースキャスターの声も黒塗り画面の奥に消えると、部屋の中には沈黙と人工冷気だけが取り残された。遠くから蝉の叫びが聞こえてくる。
 俺は一人、四畳半の部屋の真ん中、通知を手にしたまま立ち尽くした。面倒くさがらず電気代を払っておけば良かったのに、という後悔の念よりも先に、思うことがあった。

 ―――俺は悟ったのだ。この通知こそ、神の啓示だと。

 俺は九月から、雑誌で小説の連載を持つことになっていた。そのため二週間後、つまり八月二十日に連載小説のプロットを担当の編集者に提出しなければならなかった。
 今年の二月、大学卒業の目前で、俺の書いたSF小説が若手小説家の登竜門である若葉賞を受賞した。最初は信じられず、毎日がふわふわ浮き足立っているようだったが、それなりの賞金を手にし、生活の質が徐々に向上していくにつれ、俺は人ごみに流されるように、現実を飲み込まざるを得なくなった。
 が、豊かな生活を送りながらも、俺は自分が若葉賞を受賞したことに対して、まだまだ疑問を感じていた。実際世間の偉い先生方からも、俺の受賞作はしばしば批判されている。
 しかし受賞したからには、選考から外れた作品や、審査員の先生方のために、俺は頑張って小説家として前に進まなければならない。受賞してハイ終わり、とはいかないのである。若葉賞受賞はゴールではない、ようやくスタート地点に立っただけの話なのだ。

 電気を止められた今、俺は気づいた。冷房や扇風機やテレビのような、文明から与えられた豊かさに甘えてしまっているから、俺は駄目なのではないだろうかと。
 小説の執筆、すなわち文章を媒体とした新たな世界を作り上げるのに必要なのは、書き手が自分の内なる世界と真摯に向き合うことなのだ。時に作り出した世界の矛盾に悶絶し、時に言葉選びに苦悩し、時にイタコのごとく自らに登場人物を憑依させ、精神の悲鳴と肉体の限界の末に生み出された小説こそ、他人に読まれる価値があるというものだ。
 これは試練だ。今こそ文明の利器を打ち捨て、消極的に受け入れてしまった優雅な生活を断ち切り、この閉め切った真夏の部屋で、精神と肉体の極限を引き出すのだ! きっとまた最高の小説を書ける。若葉賞を獲得したことは夢でなかったのだと、俺の実力は本当に若葉賞に値するものだと、世間にも、また自分自身にも、知らしめてやるのだ!
 俺は狂ったように雄叫びを上げ、その勢いで、大量に買い溜めしてあった四百字詰め原稿用紙を座卓の上にぶちまけた。原稿用紙雪のように白くなった座卓と周りの床の前で、キンキンに尖ったHB鉛筆を剣のごとく掲げれば、心の底から、戦意が湧きあがってきた。

 ……気がした、のだ。
 神の啓示の効果は僅か数日でみるみる薄れ、俺はもう神の存在すら疑わしくなってきていた。一時の気分の高揚なんて、所詮、そんなものなのだ。
 結局、四日前に座卓と床に散らかした原稿用紙は白いままで、強いて変化を言うなら、くしゃくしゃに丸まった原稿用紙が、少しゴミ箱に溜まったくらい。
 劣悪な環境に置かれても小説が書けないと分かれば、諦めて電気代を支払うなり窓を開けるなりすればいいのかもしれない。しかし俺は崇高な啓示の代わりに、低俗な意地によって我慢大会を続行することを決めた。ここで外の空気を取り入れてしまえば、缶詰となって過ごした辛く苦しい四日間が、水の泡となって消えてしまう気がしたのだ。この四日間の苦しみを無駄にしないためには、そう、この生活を続けて人間の極限を知るしかない。小説云々の問題ではなく、これは純粋な好奇心と、無駄な意地による我慢大会なのである。
 部屋の温度計を見れば36℃、人肌並の気温である。……つまりこの四畳半の狭い部屋に、36℃の人間がぎゅうぎゅう詰めになっていると考えられるのではないだろうか。巨乳美女ならご褒美かもしれないが、残念ながら架空の乳は揉めない。それに室内の淀んだ空気、不快指数を考慮するなら、恐らくぎゅうぎゅう詰めになっているのは脂汗の噴き出したメタボのおっさんだ。例え架空でもおっさんの腹を揉んだって全然楽しくない。
 そんなわけで俺はマシュマロの袋詰めセールのようにメタボのおっさんに押しくら饅頭されながら部屋の真ん中の座卓に向かって小説の構想を練っているのだった。いくら缶詰状態で部屋の時間が止まっているように思えても、外の世界では着実に時間は経っている。プロット提出の締切も迫っている。
 ネタだ。ネタだ。面白いネタを。俺は脂汗のおっさんに囲まれることで新たな悟りを開くのだ! 混濁した意識、陽炎のように崩れだす部屋の空気、全身をラップに覆われたような密閉感。上下左右から迫りくるおっさん。このおっさんの中に埋もれて、どこかにきらりと輝く素晴らしいネタがあるに違いない。俺は両手をまっすぐに伸ばし、おっさんの海をかき分け始めた。クロールの手刀で、まるで水が裂けていくように、幻にしては重厚感のありすぎたおっさんたちがみるみる薄れていく。どきやがれ! 橋爪先生のお通りだ! ……おや、遠くで何かが煌めいた。あれこそがダイヤの原石、我が小説家人生を繋ぐもの! あれを手にした時、俺は未知なる俺と遭遇する。さあ手を伸ばせ、指先に神経を集中させろ、届く、届く! 金平糖のように光の棘を伸ばす光源と、人差し指が、重なる――。
 硬く冷たいものが指先に触れる。いつの間にか俺は台所で這いつくばっていて、生活の相棒である鯖の水煮缶をつかんでいた。
 スマートフォンが俺を呼んだのは、ちょうどその時である。

『もしもし、橋爪さん?』
 俺を未知なる遭遇から引き離した電話は、俺の連載の担当をする編集者・日詰(ひづめ)さんからで、彼はプロットが今どのように進んでいるのか知りたい、とのことだった。
「受賞作と同じように、SF路線で行く予定ですよ。毎回八百字の半年連載で、原稿用紙四十八枚分の短編小説ですよね。大丈夫です、何とかなります」
『具体的なストーリーや設定は』
「これからです」
『本当に大丈夫ですか? プロットの締め切り、三日後ですよ?』
「えっ」
『締め切りは三日後、八月十三日ですよ。橋爪さん、もしや……』
 充満していたおっさんが、急激に腐敗し膨張していくようであった。俺は理性を蝋のように全身にコーティングして固め上げ、何とかスマートフォンを耳に当てた状態をキープしていた。
「……じ、冗談ですよ」
 ははは、と、乾いた笑いが口を突いて出てきた。なぜだ、なぜ勘違いしてたんだ。聞き間違えたのか、俺の脳内が勝手に記憶を偽装していたのか。いずれにしろ、根本的な原因は、俺がこの連載小説に対して積極的になってなかったことだろう。
 電話越しではこちらが焦っていることに気付かれずに済んだのか、それとも向こうが察してこれ以上追及することをやめたのか、日詰さんはそれ以上何も聞かなかった。
『……それじゃ、三日後、編集部に来て下さい。そこで打ち合わせをしましょう』
「はい。そでれは、よろしくお願いします」
 まるで糸電話の糸をハサミで切られるように、通話は、俺と外の世界を繋ぐものは、いとも簡単にふつりと切れた。通話終了のボタンを押すことも忘れ、俺は理性に固められた状態のまま、指の関節ひとつ動かせずにいた。
 ――俺の心の中に、大きな深い湖があった。波紋もない、穏やかな湖面。夏の日差しもまた、鏡のような水面に映れば風情豊かなきらめきとなる。
 と、金粉をまぶしたようなきらめきが、一斉に湖の中へ身を隠した。黒い影が湖を覆う。湖を埋めるほど大きな黒い岩が落下してくる、空気が唸る、轟音と共に、岩は湖の鏡面に衝突する、鏡はたやすく、それでいてグロテスクに、砕けて散って――。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!」




 俺の部屋は地球の自転から離脱し、独自の軸を回り始めた。時計の短針が二回転するうちに、俺の部屋には朝が4回夜が56回やって来て、回転の止まらない部屋の中で、俺はドラム式洗濯機の中で回るTシャツのように回転することを余儀なくされていた。いや、洗濯槽の衣類なんて表現は生ぬるい。奴らは満員電車の生命の危機を知らない。奴らは某アイドルのライブを最前列で見る恐怖を知らない。いや、こんな例えでさえも、今の俺を例えるに及びはしない。俺の前でひざまずけ、陳腐な比喩表現ども!
 息も吐けない部屋の中、俺に密着するのはおっさんonおっさんonおっさんonおっさん、回る回る回る脂汗と腐敗臭。俺はおっさんに圧迫されてマネキンのように体勢を固定されたまま、内臓から脳みそから毛根から、黄ばんだアイデアとどろどろのネタを絞り出す。液体のようなおっさんでぎゅうぎゅう詰めの空気の薄い室内、一匹の蚊すら飛べないであろう隙間を、俺が吐き出したアイデアとネタは油のようにゆるゆる立ち昇っていく。唯一の隙間が、空気が、油で埋まっていく。完全なる密閉空間、完全なる缶詰状態。これが、そうか、人間の極限なのか?
 声もなく笑う。舌を伝い口から零れ出すのは、鼻の穴から出ていくのは、涙腺から溢れ出すのは、どろりとした油。俺はもう、人間でなくなった。腐敗したおっさんを吸い油を吐き出す、部屋の一部と化したのだ。ああ。こうして人間でなくなったのなら、もう意地もプライドも過去の偶然の栄光も社会的な体裁も、全て打ち捨ててしまいたい。
 小説の連載の話を持ち掛けられた時、俺は取り返しのつかないことをしてしまったと後悔した。もう戻れないと感じた。受賞作がまぐれだったから、連載なんて持ってしまえば、たちまち俺の程度が知れてしまう。そしてそれを恐れて書けなくなってしまっても、やはり俺の程度が知れてしまう。怖かったのだ、初めての仕事が。
 足の指がぴくりと痙攣する。その拍子に、硬い物が足の親指の先に当たった。何だろう。俺はおっさんの中でもぞもぞと身体を動かし、徐々に体勢を変えていった。屈むような体勢で俺が手にしたのは、鯖の水煮缶だった。部屋に缶詰になってからというもの、以前からストックしていた食品缶詰は、俺の命綱と言っても良かった。
 俺はそっと、“鯖の水煮”のロゴを指先でなぞった。暑いおっさんに囲まれていたせいで、ひんやりした缶詰が心地よい。……そうだ、お前はずっと、おれのことを支えていてくれた。なぜ気づかなかったんだ、いつも傍にいてくれたのに、こんな幸せに気付かないなんて。鯖の缶詰よ。お前もまたおれと同じように、空気のない空間で、今日まで閉じ込められていたんだな。いや、何も言わなくていい。お前の気持ちがこれほどまでに分かる人間は、多分世界においておれ一人だ。
 俺は優しく人差し指で缶詰のタブを起こした。たった一枚の柔らかいアルミ板をめくるだけなのだ。それだけでおれは、密閉され身動きの取れない鯖の水煮を救い出すことが出来る――。
 いざ缶詰の蓋をめくろうとして、その刹那、俺の思考回路に稲妻が走った。缶詰の蓋をめくる動きと、本のページをめくる動きが、その時、俺の脳内で重なったのだ。

 ――これだ。

 缶詰の中に詰め込まれた世界は、缶詰の蓋を開けることで、まるで本の一ページ目を開くように動き出す。一度中身が空気に触れてしまったなら、もう元に戻すことはできない。缶詰の中に仕組まれたカラクリ、文字列で密閉していないと成り立たない缶詰の世界。トラブルによってヒロインが欠けてしまったとしても、物語を構成する文字列によって、再び同じ立ち位置のヒロインが缶詰の中に現れる。なぜ缶詰の中に世界が詰まっているのか? それはきっと、缶詰の外の世界で人類滅亡の危機が迫り、危険を感じた主人公が、生身の体を捨て、缶詰の中、つまり文字列の中に自分と自分を取り巻く世界を閉じ込めたのだ。缶詰の外の世界が平穏になり、何億年の時を経て再び人類が現れ、缶詰を開ける知能を持つ者が現れるまで待つために、缶詰の中に世界を詰めるという手段を選んだのだ。
 ――これだ。
 俺の中に、おっさんでもなく油でもなく、人間らしい熱い血が蘇ってきた。神経と血脈が手足の先端を突き破り、部屋の中に根を張り巡らせていく。床を、壁を、原稿用紙を這いつくばり、どこまでも部屋を支配していく。俺は部屋の果てにあったHBの鉛筆をひっつかみ、剣のように勢いよく床に突き刺した。ビシッとフローリングに放射状の派手な亀裂が入り、そして数秒の静寂。部屋に充満していたおっさんのうち十数人が、亀裂の底の暗闇へ、ひゅうっと吸い込まれていった。
 次の瞬間だった、亀裂から、おびただしい量の真っ黒い液体が噴き出した。墨汁のような色なのに、マグマよりも熱い。粘り気のある白い蒸気と黒い液体が四畳半で混じり合う。夏の密閉空間よりも遥かに熱い液体が、おっさんたちを焼き溶かしていく。
 俺は無我夢中で床に散らかっていた原稿用紙をかき集め、数十枚をまとめて噴き出す墨汁に晒した。ぼたぼたぼたっと血飛沫が飛ぶような音がして、原稿用紙のマス目を墨汁が埋め尽くしていく。原稿用紙を持つ手が熱い。しかし手放すわけにはいかなかった。部屋中に張り巡らした神経と血脈は、俺が逃げ出すことを許さない。俺は両の眼を見開き、じっと原稿用紙の行く末を見守る。
 墨汁のシミはやがて引いていったが、マス目には一文字一文字、黒々とした文字が焼き付いていた。


 俺は四畳半の部屋の真ん中に座っていた。八月十三日、午前八時。冷房も扇風機も点けず、部屋の窓を全て閉め切っていた。しかし、もう、部屋の中に閉じこもっている理由はなくなったのだ。俺は原稿用紙に書かれたぴかぴかのプロットを手にし、実に実に晴れやかな気持ちでいた。あとはこれを日詰さんの所へ持っていき、打ち合わせをする。世界観や登場人物の設定にはしっかりと筋を通すよう努めたが、今日の打ち合わせや、これから連載する中で少しずつ矛盾が浮き出してくるかもしれない。その時はその時だ、きちんと向き合おう。
 俺はシャワーを浴び、正装をして、原稿用紙の入ったカバンを持って玄関へ歩き出した。
 部屋の片隅に、空っぽの鯖の水煮缶を残して。

 内鍵を開け、ドアを開ける。まるで俺がドアを開けるのを待っていたかのように、涼やかな風がわあっと部屋に吹きこんできた。俺は部屋の鍵を閉めることも忘れ、北向きのアパートの廊下でしばし立ち尽くした。口と鼻孔と毛穴と、全身で息を大きく吸い込む。さらりとして、それでいて酸素をふんだんに含んだ、夏の朝の香りのする空気。美味である。思わず口元が緩んだ。
 アパートの廊下に、朝の低い陽が伸びている。どこからか朝のラジオ体操へ向かう子供たちの声が聞こえる。車のエンジンの音が聞こえる。ミンミン蝉が素晴らしき夏の朝を歌い上げている。
「さあ」
 俺は自分に言い聞かすよう、あえて声を出した。
「行こうか」
 部屋に鍵を掛け、東を向いて歩き出そうとした、その時だった。山際から顔を出した朝日の長い長い放射状の光の棘、そのうちの二本が特に長く、俺の方へ伸びているのを目の当たりにした。二本の光の先はまるで俺の身体をすくい上げるように、俺の足元まで伸びている。
 俺は頭が、真っ白になった。



 ――これは、巨大な箸だ。

 ――こいつは俺を、食べるつもりだ。


 鍵を掛けたはずのドアがバーンと派手な音を立てて開き、霧散したと思っていた億千万の脂ぎったおっさんたちが、俺の部屋から溢れ出した。
 ――ああ。俺は所詮、缶詰の中身に過ぎなかったのだ……。
 俺はくらっと眩暈を起こし、そして気を失ってしまった。



  =Fin=
2013/11/09

「缶詰」というテーマで書きました。




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